2016年1月7日木曜日

まんが 2作目「ドミトリーともきんす」

高野さんのあとがきを読んで感じた作品のコンセプトと、
描写方法の選択が素晴らしいなと思いました。
非常に素直な言葉で書いてあってわかりやすかったし、好感が持てました。

今後も高野作品をチェックしたいです。

最後の湯川秀樹さんの文章も素晴らしかったです。
特に、科学と詩をつくることの出発点はどちらも同じで、自然を見ることからはじまる。といった内容の部分に感銘をうけました。

全文をブログより引用

詩と科学は遠いようで近い。近いようで遠い。どうして遠いと思うのか。科学は厳しい先生のようだ。いいかげんな返事はできない。こみいった実験をたんねんにやらねばならぬ。むつかしい数学も勉強しなければならぬ。詩はやさしいおかあさんだ。どんな勝手なことをいっても、たいていは聞いて下さる。詩の世界にはどんな美しい花でもある。どんなにおいしい果物でもある。

 しかしなんだか近いようにも思われる。どうしてだろうか。出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ること、聞くことからはじまる。薔薇の花の香りをかぎ、その美しさをたたえる気持と、花の形状をしらべようとする気持の間には、大きな隔たりはない。しかし、薔薇の詩をつくるのと顕微鏡を持ち出すのとでは、もう方向がちがっている。科学はどんどん進歩して、たくさんの専門にわかれてしまった。いろんな器械がごちゃごちゃに並んでいる実験室、わけの分らぬ数式がどこまでもつづく書物、もうそこには詩の影も形も見えない。科学者とはつまり詩を忘れた人である。詩を失った人である。

 そんな一度失った詩は、もはや科学の世界にはもどって来ないのだろうか。詩というものは気まぐれなものである。ここにあるだろうと思って一しょうけんめいにさがしても、詩が見つかるとは限らないのである。ごみごみした実験室の片隅で、科学者はときどき思いがけなく詩を発見するのである。しろうと目にはちっとも面白くない数式の中に、専門家は目に見える花よりもずっとずっと美しい自然の姿をありありとみとめるのである。しかし、すべての科学者が隠された自然の詩に気がつくとは限らない。科学の奥底にふたたび自然の美を見出すことは、むしろ少数のすぐれた学者にだけ許された特権であるかも知れない。ただし一人の人によって見つけられた詩は、いくらでも多くの人にわけることができるのである。

 いずれにしても、詩と科学は同じところから出発したばかりではなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。そしてそれが遠くはなれているよ うに思われるのは、途中の道筋だけに目をつけるからではなかろうか。どちらの道でもずっと先のほうまでたどって行きさえすれば、だんだん近よってくるので はなかろうか。そればかりではない。二つの道はときどき思いがけなく交差することさえあるのである。

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